
万里の長城とか兵馬俑って聞いたことがある?

中一の時の歴史で習った気がするけど・・・。
万里の長城といえば、知らない人がいないくらい有名な中国にある世界最大の建造物ですよね。

この二つには共通点があるのかな?

実はあるんだよ。
この二つに共通する人物は、始皇帝という人物なんだ!
中国史上初めて統一に成功したと言われている人なんだよ。
今回は、始皇帝に関わる世界遺産について勉強していきたいと思います!
始皇帝ってどんなことをしたの?
秦(シン)の王に13歳で即位したのは、政(セイ)という少年でした。
当時の中国は、春秋・戦国時代で、多くの国々が戦いをしていた時代。その中で、政は他の国を積極的に攻撃し、紀元前221年に中国を統一したのです。
そして、自らを絶対化して「始皇帝」と称しました。
中国を統一した始皇帝は、中央集権体制を確立するために様々な統一を行いました。
- 度量衡(どりょうこう)・・度(ものさし)、量(ます)、衡(はかり)を統一。国で定めたおもりや升を全国に配った。
- 通貨・・半両銭
- 文字・・篆書(てんしょ)
- 車輪の幅・・雨がふったあとにできる「轍(わだち)」。この轍の幅が異なっていると交通に不便をきたすので統一した。

車輪の幅まで統一するなんて!

そのほかにも、こんなこともしているよ。
- 巨大な運河の建設・・塩分が多くて耕作に適さなかった土地が肥沃な土地に生まれかわり、経済的な力が蓄えられた。
- 焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)・・政治批判のよりどころとなる可能性のある書物を一切焼き払い、それを批判した儒学者を生き埋めにしたと言われている。
強引な政治をした始皇帝ですが、当時の中国は「統一」を望んでいたのかもしれませんね。
万里の長城【文化遺産・1987年登録】

万里の長城は、春秋時代から建設が始まって、戦国時代には各国が個々に城壁を築きました。
秦の始皇帝は、戦国時代に各国が築いた城壁をつなげ、修築して北方の騎馬民族の侵入に備えたのです。当時は土を盛って固めてつくられたものでした。

現在の万里の長城は、秦の時代のものなの?

現存する長城は、15世紀の明(みん)の時代につくられたものなんだよ。
始皇帝時代のものより、南にあるんだ。
明の時代では、高温で焼いたレンガや石灰使われ、以前より堅固になりました。城壁の高さは5~6m、高いところでは10mくらいあります。
現在、すべてあわせると総延長距離は約20000㎞に達するようですよ。結構長さですよね。
世界遺産には、八達嶺(はったつれい)長城や山海関(さんかいかん)などを含む3つのエリアが登録されています。

約20年前に万里の長城にいったことがあるんです。
ちゃんと整備されたので、はりきって歩き始めましたが、あまりにも急な坂なのですぐにギブアップしちゃった!
万里の長城の帰り、近くのトイレにいったんですが、なんと!ドアが無いっ!!!!!!
・・・・あまりのショックに用を足せませんでした。
今はドアがついたのかな?
始皇帝陵と兵馬俑坑【文化遺産・1987年登録】
始皇帝陵
中国の西安郊外にある始皇帝の陵墓。完成するまでに約40年もかかりました。
本人が生きているうちに作り始めましたが、完成を見ることなく亡くなってしまいます。
地下には巨大宮殿が存在するとされ、司馬遷の『史記』には、床に水銀を流して川や海をつくり、天井には天体を描いて空を表していたという記述がある。
きほんを学ぶ世界遺産100 世界遺産検定3級公式テキスト より
この地下の巨大宮殿が盗掘されないように、機械じかけで矢が射られる装置があったといわれています。
床に水銀を流した理由は2つ。
- 始皇帝の遺体を腐らせないようにするため。
- 入り込んできた泥棒を毒で殺すため。
紀元前のできごととは思えませんね・・。
兵馬俑坑

始皇帝陵の東側に位置し、これまでに4つの坑が見つかっています。
兵馬俑坑は兵士や馬の形をした陶製の像で、始皇帝の死後の生活を守るために遺体とともに埋葬されました。
最大の1号坑からは、約6000体の兵士俑が見つかっています。この兵士の身長は180㎝前後で、誰ひとりとして同じ表情や髪形、服装ではないんですよ!

1974年、農民が井戸を掘っていたら空洞があったんだ。そこを掘ってみたら、兵士や軍馬の陶製の像が出てきたんだよ。
地下6mほどの深いところに埋められていたので、2000年もの間だれ~も気づかなかったんだね。

私が行った時は、兵馬俑坑を見つけた農民の方がサイン会をしていたわ!
私はサインはもらってきませんでしたけど。
まとめ
万里の長城と兵馬俑坑に共通する人物は秦の始皇帝。
紀元前221年に中国史上初めての統一に成功。
中央集権体制を確立するために、度量衡、通貨、文字、車輪の幅を統一した。
始皇帝は、戦国時代に北方の各国が築いた長城を修築して、北方の騎馬民族の侵入に備えた。(現在の長城は、明の時代につくられたもの)
また、約40年かけて陵墓をつくり、司馬遷の『史記』地下には巨大宮殿が存在するという記述がある。
陵墓の近くには兵馬俑坑があり、始皇帝の死後の生活を守るために兵士や軍馬をかたどった陶製の像が遺体とともに埋葬された。
以上で今回の学習は終わり!


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